ずっと悩んでいた事がある。 ここに至るまで、随分時間がかかったけれど 大好きな貴方に 大きく息を吸い込んで、頭上に広がる真っ青な空を見上げた。 空と共に見える、葉のない淋しげな木が強い風にゆらゆらと揺れていた。 もう日も暮れ、人気のない部室裏はギシギシと幹の揺れる音と強く吹き付ける風の音だけが響いていた。 冷えきった手を擦り、はあっと自分の息を吹き掛けてから 伊武はまた、大きく息を吸い込んだ。 木枯らし吹く寒空とは裏腹に、逸る鼓動とほてる頬を少しでも静めようと何度も何度も、息を吸い込んだ。 今日は、生まれてから今までで一番緊張しているんだろうな、と自嘲気味に笑ってから 少しでも心を落ち着けようと、そっと瞳を閉じる。 今、自分が待っているのは 初めて出会った時から心惹かれ止まない人。 自分の世界を変えてくれた人。 伊武に初めて、この気持ちを与えてくれた人。 名を呼ばれるだけで心は踊り、自分以外の誰かと会話する姿を見る度に、胸の奥が熱くなるような モヤモヤした気持ちにさせられた。 これが恋なのだと気付くのにはかなりの時間を要した。 おかげさまで気がついた時には、その人があと一ヶ月で卒業してしまうというそんな情けない結末が待っていたのだけれど。 「深司?」 ふと、名を呼ばれ心臓が跳びはねた。 幾度も聞いて来た、その自分の名を呼ぶ 声 「…橘さん」 ゆっくりと目を開けると、優しい笑顔で自分の元へ歩み寄るその姿が見えた。 それだけの事で、心はまた飛び上がる。 一歩一歩、近付くその足音さえも 鮮明に聞こえるような気がする。 「悪いな、待たせてしまった」 「いえ。呼んだのはオレですから」 冷静を装おう表情とは相反して、血の巡る音が頭の中で響き渡る。 橘の声が、聞こえないのではないかという位に。 「今日は、どうしたんだ?」 まだ優しい笑顔で自分を見つめる橘を真っ直ぐに見る事ができなくて 視線を落とす。 すると、いつもより倍に膨れ上がった鞄が目に入った。 いかにも見つけてください。と言わんばかりに飛び出している綺麗なラッピングの箱が伊武の目に映って… 何故かそれを目にした瞬間に、今日クラスの女子が話していた内容を思い出した。 『ただ、普通にあげたんじゃインパクトなくて忘れられちゃうよねーー』 『やっぱり、チューの一つでもした方がぜっていいってー』 大声でそんな事を話す女子達にその時はただ呆れたけれど、いざ目の前にしてみると それも一理あるかも だなんて、頭を過ぎったりして…。 はっと我に返ると、目の前には自分の顔を覗き込むようにした橘の顔があった。 ―キスくらいした方が ―橘さんの心には残る そう思うやいなや、伊武は橘の襟を両手で掴むと少し、かさついたその唇に自分の唇を押し当てた。 それは人が見たら、キスとはとても言わないような、短くて 稚拙で それでも自分の中で精一杯のキス。 「深司…!?」 唇が離れたか離れていないかの位置で、橘が怒ったような声で伊武の名を呼んだ。 けれど、伊武の目に映った橘は 日が落ち、暗くなった視界の中でもはっきりとわかる位 赤く朱く染まっていた。 胸の中で、ピクリ。 何か今までと違う感覚がした。何故だか、嬉しいような。心のモヤが取れたような そんな感覚が。 「橘 さ ん」 大好きな人の名を呼びながら、自分のポケットの中に手を滑り込ませ 体温で少し生暖かくなった”ある物”を取り出す。 口元を手で覆いながら目を丸くした橘の胸元に、それを音がするのではないかと思う程の強さで 押し付けた。 「っつ……?!」 「これは…?」 「…チョコ、です」 先程の伊武の行動のせいで、意識が少し飛んでいた橘は 今日が、何の日であるかを思い出し また顔を赤くした。 それが、何を意味するものなのかを悟って。 「深司、これは…つまり…」 「違います。 それは、 宣戦布告のチョコです」 少し、可愛いげなく口の端を上げてから伊武は押し当てていたチョコから手を離す。 慌ててそれを受け止めた橘を見て、もう一度笑って。 「卒業まで、一ヶ月くらいしかないですけど、それでもオレなりの全力で いきますから」 もはや、一度に色々な事がありすぎて話についていけない橘は、ただポカンと口を開いて深司を見つめた。 これが、恋なのだと気がついてからそんなに時間は経っていないけれど この気持ちがなんなのだろうと悩んで悩んで悩み続けた。 ここに至るまで随分時間がかかったけれど。 だからと言って、告白まで時間をかける事はできない。 だから伊武は決めた。 このバレンタインという日から、卒業までの間に少し意地悪な勝負をしようと。 今までの分も含めて、一ヶ月間 全力で愛して、気持ちをぶつけようと。 今日の事はほんの始まりにすぎない。 そう心の中で意気込んでから、橘に頭を下げそのままその場を立ち去ろうと一歩、ニ歩と土を踏み締めた。 「深司!」 ぴたり。 その声に反応し足を止め、振り返らずに 伊武は次の言葉を待った。 「これは…好きだとそういう意味で取ればいいのか?」 それは橘らしくない、随分と動揺した…情けない問い掛け。 「…その辺は橘さんにお任せします」 「いや、しかし…!」 「じゃあ、言い方を変えて。オレがその言葉を貴方に言うのは一ヶ月後です」 覚悟してくださいね。と一言付け加えて、そのまま振り返る事なく伊武はこの場を後にした。 それは清々しい顔で。 振り返らなかった伊武はわからない。 橘がどんな表情で、チョコとその後ろ姿を交互に見遣っていたかなど。 けれど きっと、 それが判るのは 桜が咲き乱れ、空が真っ青に澄み渡る 一ヶ月後の事―…… 〜END〜 モドル |